「後継者がいない」の裏側にある本当の問題 — 経営の暗黙知を、構造として引き継ぐ設計|未来の為の人事制度|山田社会保険労務士事務所
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コラム 未来の為の人事制度

第10回

「後継者がいない」の裏側にある本当の問題 — 経営の暗黙知を、構造として引き継ぐ設計

中小企業の経営者と話していて、最も重い空気が流れる話題があります。

事業承継です。

「後継者がいない」「子どもは継ぐ気がない」「社員に任せられる人材がいない」「もう自分の代で畳むしかないかもしれない」——こうした言葉が、深いため息とともに語られます。

中小企業庁が毎年公表している調査では、後継者が不在の中小企業の割合は、依然として高い水準にあります。経営者の高齢化は進み、廃業を選ぶ企業が増え続けている。少子高齢化と人口減少という構造の中で、この問題は個別の企業の努力だけでは抗えない規模で広がっています。

しかし、この問題を「後継者がいない」という言葉だけで捉えると、見落とすものがあります。

仮に、明日、適切な後継者が現れたとしましょう。親族でも、社員でも、外部から招いた人材でも構いません。能力もあり、意欲もあり、引き継ぐ覚悟もある人物です。

そのとき、現経営者は、何を、どのように引き継ぐのでしょうか。

多くの中小企業の経営者が、この問いに即答できません。財務諸表、取引先一覧、契約書、設備資産——これらの引き継ぎは、税理士や弁護士の助けを借りればできます。しかし、それだけでは、会社は動きません。会社を動かしてきた本当の中身は、別の場所にあります。

経営者の頭の中です。

第10回の今回は、この「頭の中にあるもの」を、引き継ぐべき構造として設計する話をします。

後継者問題の本当の正体

後継者問題は、二つの異なる問題が重なって表面化しています。

一つ目は、文字通り「適任者がいない」という人材の問題。少子化で親族内承継が成立しにくくなり、社員数の少ない中小企業では候補となる人材も限られ、第三者承継(M&A)もすべての企業で成立するわけではない。これは構造的な人材不足の問題です。

二つ目は、「引き継ぐべきものが言語化されていない」という構造の問題です。

二つ目の問題は、一つ目に比べて、語られることが少ないように見えます。しかし実際には、一つ目の問題を深刻化させているのは、二つ目の問題です。

なぜか。

引き継ぐべきものが明確に言語化されている会社は、後継者候補にとっても、引き継ぎやすい会社です。何を学べばよいか、何を判断できるようになればよいか、何をクリアすれば一人前と認められるかが、外から見える形になっている。これは、後継者候補が「自分にできるかどうか」を判断するための、最低限の前提です。

逆に、引き継ぐべきものが経営者の頭の中にしか存在しない会社は、後継者候補から見ると、得体の知れない塊として映ります。何ができれば一人前なのか、何が引き継がれれば承継が完了するのかが、分かりません。「いつまで経っても先代に追いつけない」「何かにつけて先代が口を出してくる」という未来が予感され、候補者は身を引きます。

「継ぎたい人がいない」という現象の少なくとも一部は、「継ぐ気になれるほど、引き継ぐ対象が明確になっていない」という構造から生まれています。

経営者が引き継ぐべき三層

経営という営みを、引き継ぐべき対象として整理すると、三つの層に分解できます。

第一層は、事業の資産です。

財務(現預金・売掛金・在庫・設備)、取引先と契約、不動産、知的財産、許認可、従業員との雇用関係。これらは形のある資産であり、文書として記録されています。承継時には、税務・法務・労務の専門家が関わり、移転手続きが進められます。多くの中小企業では、この層の引き継ぎは比較的整備されています。

第二層は、業務の仕組みです。

日々の業務を回している手順、判断の基準、組織内での役割分担、トラブル発生時の対応の型、顧客との関係の維持の仕方。これらは、会社が日々動いている根拠ですが、文書として残っている部分は限られます。多くは「現場で動いている社員の体に染み込んだ動き方」として、人に紐づいて存在しています。

第三層は、経営の判断軸です。

長期的にどの方向を目指すか、どの事業に投資し、どれを撤退させるか、利益と顧客満足のどちらを優先するか、価格を維持するか柔軟に変えるか、社員にどこまで投資するか。こうした上位の判断を支える論理が、経営者の中に蓄積されています。これは多くの場合、本人も全体像を言葉にしたことがない領域です。

事業承継を「資産の移転」として捉える限り、引き継がれるのは第一層だけです。第二層と第三層は、経営者個人とともに、いずれ消えます。

「先代と同じものを引き継いだはずなのに、なぜか会社が回らなくなった」——承継後によく聞かれるこの言葉は、第一層しか引き継がれなかった結果として生まれます。

「俺の背中を見て覚えろ」が機能しない理由

中小企業の事業承継でしばしば採られてきた方法に、「後継者を社長の隣に置き、長年そばで見せる」というやり方があります。

「俺の背中を見て覚えろ」「私のやり方を、肌で吸収しろ」——これは、経営の暗黙知を移転するための、伝統的な手段です。職人の世界では今なお有効な方法ですし、中小企業の事業承継でも、長年にわたって採用されてきました。

しかし、この方法には、現代の経営環境では成立しにくくなった前提があります。

第一に、時間の前提です。背中を見て覚えるには、最低でも10年から20年の同行期間が必要です。経営者が60代後半まで判断の現場にいることが前提となっている会社では、後継者の参画は40代以降にずれ込み、引き継ぎ期間が十分に取れません。

第二に、経験の偶然性の前提です。背中を見て覚える方法は、重要な経営判断の場面にたまたま立ち会えることが前提です。リーマンショック級の経済変動、主要取引先の倒産、長年の主力商品の衰退、組織内の重大なトラブル——これらの局面で経営者がどう判断するかを見ることで、判断軸が伝わります。しかし、これらの局面は、計画的には発生しません。10年同行しても、決定的な判断場面に立ち会えないまま承継時期を迎えることがあります。

第三に、第9回で扱った認知的徒弟制の論点と重なります。背中を見せる側が、自分の判断プロセスを言葉にしない限り、見る側は表面的な動きしか模倣できません。「先代と同じ場面で同じように判断したつもりが、結果が違った」という現象は、判断の表面だけが模倣され、その根拠となる論理が伝わっていなかったために起こります。

「背中を見て覚える」という方法は、経営の判断軸が経営者の頭の中で暗黙知として存在し続けることを前提にした、極めて非効率な伝達手段です。条件が揃えば成立しますが、現代の中小企業の環境で、その条件は揃いにくくなっています。

暗黙知を、形式知へ

野中郁次郎と竹内弘高は、1995年の著作『知識創造企業』で、組織における知識の動きを「SECIモデル」として整理しました。

このモデルの中核にあるのは、暗黙知と形式知の区別です。暗黙知は、個人の経験の中にあり、言葉にしにくい知識。形式知は、文書や図表として表現され、組織内で共有できる知識。

組織が知を蓄積し、世代を超えて引き継いでいくためには、暗黙知を形式知へと変換し、形式知を他者の中で再び暗黙知として血肉化させ、それがまた次の形式知を生む、というスパイラルが必要だと、彼らは論じました。

事業承継の文脈で、このモデルが示すことは明確です。

経営者の頭の中にある判断軸を、暗黙知のまま放置すれば、それは経営者個人とともに消えます。一方、判断軸を意識的に言語化し、文書として残し、組織内で共有された形式知へと変換すれば、それは経営者個人を超えて存続できます。後継者はその形式知を学び、自身の判断の中で再び暗黙知として血肉化し、自分の代で発展させることができます。

事業承継の準備とは、経営者個人の暗黙知を、組織の形式知へと変換していく作業です。

これは、引退の直前に始めて間に合う作業ではありません。判断軸を言語化するには、経営者自身が「自分は何を、なぜ、どう判断してきたか」を整理し直す必要があります。これには年単位の時間がかかります。そして言語化された判断軸は、後継者だけでなく、現在の社員の動きにも変化をもたらします。組織の中で形式知が育っていくのに、さらに時間がかかります。

事業承継の準備は、引退の十年前から始めて、ようやく間に合うかどうかという時間軸の作業です。

経営の構造化が、承継を可能にする

ここまでの議論を逆から見ると、事業承継の準備とは、第6回から第9回で扱ってきた構造化の作業の延長にあることが分かります。

第6回では、判断基準を言語化することが、組織の意思決定を経営者一人から解放することにつながると論じました。第7回では、ミスを構造の問題として扱う組織の設計を扱いました。第8回では、採用基準の構造化が、入口の精度を高めることを示しました。第9回では、業務手順と判断プロセスの言語化が、属人的な育成を構造的な育成へと変えることを示しました。

これらの構造化が積み重なった組織は、事業承継の局面で、明らかに有利な位置にいます。

判断基準は文書化されているため、後継者は何を学べばよいかが見える形になっています。業務の手順は標準化されているため、現場の動きは経営者の指示なしに継続します。採用と育成の仕組みは個人の技に依存しないため、世代交代があっても再現されます。

承継時に動かすべき変数は、構造ではなく、「現経営者という一人の人物」だけになります。

逆に、構造化が進んでいない組織では、承継時に動かすべき変数は、現経営者だけではありません。経営者の頭の中にある判断軸、現場で経営者個人を信頼して動いている社員の関係、経営者の人脈で維持されている取引先、経営者が個別に対応しているトラブル——これらすべてが、承継時に同時に揺らぎます。

事業承継の難しさは、承継そのものの難しさではなく、それまでの組織設計の積み重ねが、承継局面で精算される難しさです。

承継を可能にする構造設計は、引退十年前に着手する作業ではありません。創業時、あるいは経営者交代を意識し始めたその時点から、組織の構造を「個人に依存させない」方向に積み上げていく、長期の経営判断です。

承継を前提とした組織設計

最後に、もう一段抽象化します。

事業承継を可能にする組織設計とは、特定の個人を中心に据えない組織を作る、ということです。

組織の中心に経営者個人を据えると、その個人の能力・人脈・判断によって、組織は強く動きます。短期的には、この設計の方が、組織は速く強く動きます。経営者個人の優秀さが、そのまま組織の優秀さになります。

しかし、この設計は、経営者個人の不在に対して脆弱です。健康問題、世代交代、急な事故——どの理由であれ、経営者個人が動けなくなった瞬間に、組織は機能を失います。

組織の中心に構造を据えると、特定の個人の能力に依存しない、安定した動きが生まれます。経営者の判断軸は文書化され、業務の手順は標準化され、判断基準は共有されている。経営者個人の動きは、組織全体の動きの一部であり、置き換え可能です。

この設計は、短期的には、経営者個人を中心に据える設計よりも、立ち上がりが遅く、初期の動きも弱く見えます。しかし、組織の存続という時間軸で見たとき、この設計だけが、世代を超えて存続できる組織を作ります。

事業承継を視野に入れた組織設計とは、経営者個人の限界を、組織の限界にしない設計のことです。

経営者が現役で動いている時期から、判断軸を言葉にし、業務を標準化し、判断基準を文書として残し、これらを組織の構造として埋め込んでいく。この作業の積み重ねが、事業承継の局面で精算され、組織は次の世代に引き継がれていきます。

「後継者がいない」という嘆きの裏には、しばしば「後継者が現れても引き継げるものが整っていない」という、設計の問題が隠れています。設計の問題は、設計で解くしかありません。

連載で扱っていくこと

第10回の今回は、事業承継を組織の構造設計の観点から扱いました。

中小企業の後継者問題には、人材の不足という側面と、引き継ぐべきものが言語化されていないという構造の側面の、二つの問題が重なっていること。経営者が引き継ぐべきものは、事業の資産・業務の仕組み・経営の判断軸の三層に分解でき、後者二層こそが承継の難所であること。「背中を見て覚えろ」型の伝達は、時間と経験の偶然性に依存するため、現代の経営環境では成立しにくくなっていること。野中・竹内のSECIモデルが、暗黙知から形式知への変換の重要性を示していること。事業承継の準備は、これまでの連載で扱ってきた組織の構造化の延長線上にあり、引退の十年前から始める長期の作業であること。そして、承継を可能にする組織設計とは、特定の個人を中心に据えず、構造を中心に据える設計のことであること。

これらは、経営者個人の限界を組織の限界にしないための、長期の構造設計の基礎です。

次回(第11回)は、組織理念の言語化を扱います。「うちの会社らしさ」「先代から受け継いだ大切なもの」と語られる、組織の根幹にある価値観や哲学を、どのように構造として記述すれば、世代と社員を超えて共有可能になるのか。経営哲学と組織文化論の視点から解き明かします。

人事は、感情ではなく、科学です。

私自身、経営者個人の暗黙知を組織の形式知へと変換する設計の最適化に日々向き合っており、思考は今も更新され続けています。引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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