中小企業の経営者と話していると、ある共通の打ち明け話に出会います。
「あの社員に辞められたら、うちは終わる」
口に出して言う方もいれば、言葉にしないまま顔に出る方もいます。いずれにせよ、ほとんどの経営者は、この感覚を抱えています。会社の心臓部を、特定の一人か二人の社員が握っている。その社員が辞めると言い出したら、自分はどんな条件を飲んででも引き止めるしかない。
この状態を、私は「人質経営」と呼んでいます。
経営者が、自社の優秀な社員を「人質」に取られている状態。誰が悪意を持って取ったわけでもなく、いつの間にか、そういう構造が出来上がってしまっている。今回は、この構造を解きほぐしていきます。
「優秀な社員」が経営者を脅す立場に立つ瞬間
まず、はっきりさせておきたいことがあります。
人質経営に陥っている経営者の多くは、その社員から実際に脅されているわけではありません。「給料を上げないと辞めます」と直接言われた経験がある方は、むしろ少数派です。
それでも、経営者は脅されている感覚を抱きます。
なぜか。社員が口に出さなくても、経営者の側が勝手にその交渉力を察知しているからです。
ある朝、その社員が少し疲れた顔で出社する。経営者の頭に、瞬時に「辞めるつもりじゃないだろうか」という不安がよぎる。その日の経営判断が、無意識のうちにその社員を刺激しないように調整される。給与改定の時期が近づくと、他の社員より優先してその社員の処遇を考える。会議で意見が割れたとき、経営者は内心、その社員の側に立つ。
これらはすべて、社員から何の要求もされていないのに起きます。
経営者は、自分が交渉のテーブルに座らされていることに気付かないまま、すでに譲歩を始めているのです。
なぜ、こういう力関係が生まれるのか
ここから、少し理屈の話をします。難しい話ではありません。日常の感覚で理解できる話です。
二人の人間が交渉するとき、その交渉の力関係を決めるのは何でしょうか。
声の大きさでも、肩書きでもありません。「この交渉が決裂したら、自分はどうなるか」という、それぞれの逃げ場の差です。
たとえば、あなたが車を売りに行くとします。お店が「30万円で買い取ります」と言ってきた。あなたが「もっと欲しい」と言える強さは、あなたが「この店が嫌なら、別の店に持ち込めばいい」と思えるかどうかで決まります。別の店も見つからない、今日中に売らないと困る、という状況なら、あなたは30万円で手を打たざるを得ません。
逆に、お店の側が「この車を売ってくれる客は、今日この人しかいない」という状況なら、お店はあなたの言い値で買うしかありません。
逃げ場が多い方が強く、逃げ場がない方が弱い。 これだけのことです。
これを、経営者と優秀な社員の関係に当てはめます。
優秀な社員にとって、今の会社を辞めても、別の会社が彼を雇いたがります。転職市場で、彼の代わりはいくらでもあります。彼の逃げ場は、十分に確保されています。
一方、経営者にとって、その社員が辞めた場合の代わりは、すぐには見つかりません。求人を出しても、同じ仕事を同じ水準でできる人はそう簡単に来ない。来たとしても、戦力になるまで半年から一年かかる。その間、現場は回らず、利益は減り、他の社員にしわ寄せが行きます。
経営者には、逃げ場がないのです。
この瞬間、立場は逆転しています。雇っているはずの経営者が、雇われている社員より弱い立場に立っている。何の脅迫もなく、ただ仕事の構造だけで、こうなっているのです。
社員は悪くない、という確認
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。
優秀な社員は、何も悪いことをしていません。
彼らは普通に働き、普通に成果を出し、普通にスキルを磨いてきただけです。その結果として、会社に対する交渉力を手に入れた。これは社員側の責任ではありません。
問題は、社員の側にあるのではなく、会社の側に、特定の社員に依存しなければ回らない仕事の構造があることです。
たとえば、ある社員だけが知っている取引先との関係、ある社員だけが頭の中に入れている業務手順、ある社員だけが対応できる顧客クレーム。これらが社員の頭の中にしかない状態を、人事の世界では「属人化」と呼びます。
属人化が進むと、その仕事は社員と一体になります。社員が辞めれば、仕事も会社から消える。
これは、社員が意図的に情報を抱え込んだ結果ではありません。多くの場合、社員は真面目に仕事を引き受け、責任感を持って一人で完遂してきただけです。経営者も「この人に任せておけば安心だ」と感謝してきました。お互いに善意で続けてきたことが、気付いたときには会社の構造的な弱点になっている。
これが、人質経営が生まれる仕組みです。誰も悪くない。それでも、会社は危険な状態に置かれる。
「もっと給料を払えば引き止められる」の罠
人質経営に気付いた経営者が、最初に取る行動はだいたい決まっています。
その社員の給料を上げる。賞与を増やす。役職を与える。
短期的には、これで問題は収まります。しかし、これは根本解決にはなりません。むしろ、問題を悪化させることが多いのです。
理由は二つあります。
一つは、他の社員が見ているということです。一人の社員に特別な処遇をすれば、他の社員は気付きます。「あの人だけ特別扱いされている」「自分も辞めると言えば、給料が上がるのではないか」という感覚が、組織全体に広がります。経営者は、新たな人質を生み出す土壌を、自分の手で作ってしまいます。
もう一つは、その社員の交渉力が、給料を上げたことで弱まるわけではないということです。給料を上げた瞬間、その社員のポジションはさらに強くなります。次の交渉では、もっと高い条件を提示しなければ引き止められない。人質の値段は、払うほど上がります。
これは、人質経営の最大の落とし穴です。短期的に楽になる選択が、長期的には会社を蝕んでいく。
解決策は「優秀な社員を作らない」ではない
ここまで読んで、こう思われた方もいるかもしれません。
「では、優秀な社員を抱えないようにすればよいのか」
違います。優秀な社員は、会社にとって財産です。問題は、優秀な社員が特定の一人だけに集中してしまうこと、そしてその一人の頭の中にしか業務知識が存在しないことです。
解決策は、仕事の中身を、頭の中から取り出すことです。
具体的には、こういうことです。
その社員が日々こなしている業務を、一つひとつ書き出す。誰に何を聞き、何を判断し、どう動いているのかを、文書として外に取り出す。判断の基準も、可能な限り言葉にして残す。取引先との関係性も、引き継ぎ可能な情報として整理する。
これは、その社員から仕事を取り上げることではありません。その社員が頭の中だけでこなしていた仕事を、組織の財産に変える作業です。
この作業が完了すると、何が起きるか。
その社員は、相変わらず優秀な実務家として活躍を続けます。しかし、彼が辞めても、彼の仕事は会社に残ります。新しく入った人が、文書化された手順を読みながら、同じ仕事を引き継げる。立ち上がりの時間は、半年や一年ではなく、数週間に短縮されます。
その瞬間、経営者は人質から解放されます。
その社員が「辞めます」と言ったとき、経営者は冷静に「分かりました、お疲れ様でした」と言える立場に戻ります。引き止めるかどうかは、経営者が選べる。脅されて譲歩するのではなく、純粋に「この人は会社にとって価値があるから、引き止めたい」と判断して動ける。これが、本来あるべき経営の姿です。
「冷たい組織」になるのではないか、という懸念
ここまで聞いて、違和感を覚える方がいるかもしれません。
「仕事を文書化して、誰でも引き継げる状態にする。それは、社員を部品のように扱うことではないか。冷たい組織になるのではないか」
逆です。
仕事が属人化したまま放置されている組織こそ、社員にとって冷たい組織です。なぜなら、その組織では、優秀な社員は「辞められない」立場に立たされるからです。
考えてみてください。自分が辞めたら会社が止まる、と分かっている社員は、本当に自由でしょうか。家族の事情で辞めたいと思っても、「自分が抜けたら同僚に迷惑がかかる」と感じて辞められない。健康を崩しても休めない。新しい挑戦をしたくても、責任感が足を引っ張る。
属人化は、経営者を人質にすると同時に、社員自身も人質にしているのです。
仕事を組織の財産として整理することは、社員を解放する作業でもあります。自分が抜けても会社が回る状態は、社員にとって、心理的な重荷を下ろせる状態です。
これが、組織工学の発想する「冷たさ」の正体です。表面的には冷たく見えるルール化や文書化が、実は経営者と社員の双方を、互いを縛り合う関係から解き放っていく。
連載で扱っていくこと
第3回の今回は、人質経営という現象の構造を解き明かしました。
優秀な社員に辞められる恐怖は、経営者の個人的な弱さから来るのではなく、仕事の属人化という組織の構造から来ている。だから、解決策も個人の努力ではなく、構造の側に置く必要がある。仕事を頭の中から取り出して、組織の財産に変える。この作業によって、経営者と社員の双方が、不健全な依存関係から解放される。
具体的にどう仕事を分解するのか、何をどこまで文書化すればよいのか、そうした実務の手順は、これからの連載で順次扱っていきます。
次回(第4回)は、年功序列が崩れた今、経営者は何を基準に社員を評価すべきなのかを扱います。年齢や勤続年数に頼れなくなった時代に、それでも公平で、社員も納得し、会社の利益にも貢献する評価軸はどう設計できるのか。これも、感情ではなく科学で答えを出していきます。
人事は、感情ではなく、科学です。
私自身、人質経営から経営者を解放する設計と日々向き合っており、思考は今も更新され続けています。引き続きお付き合いいただければ幸いです。