「優秀な社員に辞められる恐怖」の正体 — 人質経営の構造|未来の為の人事制度|山田社会保険労務士事務所
人事制度の構築を専門とする社会保険労務士事務所山田社会保険労務士事務所
0259-58-9350平日9時から17時まで

コラム 未来の為の人事制度

第3回

「優秀な社員に辞められる恐怖」の正体 — 人質経営の構造

中小企業の経営者と話していると、ある共通の打ち明け話に出会います。

「あの社員に辞められたら、うちは終わる」

口に出して言う方もいれば、言葉にしないまま顔に出る方もいます。いずれにせよ、ほとんどの経営者は、この感覚を抱えています。会社の心臓部を、特定の一人か二人の社員が握っている。その社員が辞めると言い出したら、自分はどんな条件を飲んででも引き止めるしかない。

この状態を、私は「人質経営」と呼んでいます。

経営者が、自社の優秀な社員を「人質」に取られている状態。誰が悪意を持って取ったわけでもなく、いつの間にか、そういう構造が出来上がってしまっている。今回は、この構造を解きほぐしていきます。

「優秀な社員」が経営者を脅す立場に立つ瞬間

まず、はっきりさせておきたいことがあります。

人質経営に陥っている経営者の多くは、その社員から実際に脅されているわけではありません。「給料を上げないと辞めます」と直接言われた経験がある方は、むしろ少数派です。

それでも、経営者は脅されている感覚を抱きます。

なぜか。社員が口に出さなくても、経営者の側が勝手にその交渉力を察知しているからです。

ある朝、その社員が少し疲れた顔で出社する。経営者の頭に、瞬時に「辞めるつもりじゃないだろうか」という不安がよぎる。その日の経営判断が、無意識のうちにその社員を刺激しないように調整される。給与改定の時期が近づくと、他の社員より優先してその社員の処遇を考える。会議で意見が割れたとき、経営者は内心、その社員の側に立つ。

これらはすべて、社員から何の要求もされていないのに起きます。

経営者は、自分が交渉のテーブルに座らされていることに気付かないまま、すでに譲歩を始めているのです。

なぜ、こういう力関係が生まれるのか

ここから、少し理屈の話をします。難しい話ではありません。日常の感覚で理解できる話です。

二人の人間が交渉するとき、その交渉の力関係を決めるのは何でしょうか。

声の大きさでも、肩書きでもありません。「この交渉が決裂したら、自分はどうなるか」という、それぞれの逃げ場の差です。

たとえば、あなたが車を売りに行くとします。お店が「30万円で買い取ります」と言ってきた。あなたが「もっと欲しい」と言える強さは、あなたが「この店が嫌なら、別の店に持ち込めばいい」と思えるかどうかで決まります。別の店も見つからない、今日中に売らないと困る、という状況なら、あなたは30万円で手を打たざるを得ません。

逆に、お店の側が「この車を売ってくれる客は、今日この人しかいない」という状況なら、お店はあなたの言い値で買うしかありません。

逃げ場が多い方が強く、逃げ場がない方が弱い。 これだけのことです。

これを、経営者と優秀な社員の関係に当てはめます。

優秀な社員にとって、今の会社を辞めても、別の会社が彼を雇いたがります。転職市場で、彼の代わりはいくらでもあります。彼の逃げ場は、十分に確保されています。

一方、経営者にとって、その社員が辞めた場合の代わりは、すぐには見つかりません。求人を出しても、同じ仕事を同じ水準でできる人はそう簡単に来ない。来たとしても、戦力になるまで半年から一年かかる。その間、現場は回らず、利益は減り、他の社員にしわ寄せが行きます。

経営者には、逃げ場がないのです。

この瞬間、立場は逆転しています。雇っているはずの経営者が、雇われている社員より弱い立場に立っている。何の脅迫もなく、ただ仕事の構造だけで、こうなっているのです。

社員は悪くない、という確認

ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。

優秀な社員は、何も悪いことをしていません。

彼らは普通に働き、普通に成果を出し、普通にスキルを磨いてきただけです。その結果として、会社に対する交渉力を手に入れた。これは社員側の責任ではありません。

問題は、社員の側にあるのではなく、会社の側に、特定の社員に依存しなければ回らない仕事の構造があることです。

たとえば、ある社員だけが知っている取引先との関係、ある社員だけが頭の中に入れている業務手順、ある社員だけが対応できる顧客クレーム。これらが社員の頭の中にしかない状態を、人事の世界では「属人化」と呼びます。

属人化が進むと、その仕事は社員と一体になります。社員が辞めれば、仕事も会社から消える。

これは、社員が意図的に情報を抱え込んだ結果ではありません。多くの場合、社員は真面目に仕事を引き受け、責任感を持って一人で完遂してきただけです。経営者も「この人に任せておけば安心だ」と感謝してきました。お互いに善意で続けてきたことが、気付いたときには会社の構造的な弱点になっている。

これが、人質経営が生まれる仕組みです。誰も悪くない。それでも、会社は危険な状態に置かれる。

「もっと給料を払えば引き止められる」の罠

人質経営に気付いた経営者が、最初に取る行動はだいたい決まっています。

その社員の給料を上げる。賞与を増やす。役職を与える。

短期的には、これで問題は収まります。しかし、これは根本解決にはなりません。むしろ、問題を悪化させることが多いのです。

理由は二つあります。

一つは、他の社員が見ているということです。一人の社員に特別な処遇をすれば、他の社員は気付きます。「あの人だけ特別扱いされている」「自分も辞めると言えば、給料が上がるのではないか」という感覚が、組織全体に広がります。経営者は、新たな人質を生み出す土壌を、自分の手で作ってしまいます。

もう一つは、その社員の交渉力が、給料を上げたことで弱まるわけではないということです。給料を上げた瞬間、その社員のポジションはさらに強くなります。次の交渉では、もっと高い条件を提示しなければ引き止められない。人質の値段は、払うほど上がります

これは、人質経営の最大の落とし穴です。短期的に楽になる選択が、長期的には会社を蝕んでいく。

解決策は「優秀な社員を作らない」ではない

ここまで読んで、こう思われた方もいるかもしれません。

「では、優秀な社員を抱えないようにすればよいのか」

違います。優秀な社員は、会社にとって財産です。問題は、優秀な社員が特定の一人だけに集中してしまうこと、そしてその一人の頭の中にしか業務知識が存在しないことです。

解決策は、仕事の中身を、頭の中から取り出すことです。

具体的には、こういうことです。

その社員が日々こなしている業務を、一つひとつ書き出す。誰に何を聞き、何を判断し、どう動いているのかを、文書として外に取り出す。判断の基準も、可能な限り言葉にして残す。取引先との関係性も、引き継ぎ可能な情報として整理する。

これは、その社員から仕事を取り上げることではありません。その社員が頭の中だけでこなしていた仕事を、組織の財産に変える作業です。

この作業が完了すると、何が起きるか。

その社員は、相変わらず優秀な実務家として活躍を続けます。しかし、彼が辞めても、彼の仕事は会社に残ります。新しく入った人が、文書化された手順を読みながら、同じ仕事を引き継げる。立ち上がりの時間は、半年や一年ではなく、数週間に短縮されます。

その瞬間、経営者は人質から解放されます。

その社員が「辞めます」と言ったとき、経営者は冷静に「分かりました、お疲れ様でした」と言える立場に戻ります。引き止めるかどうかは、経営者が選べる。脅されて譲歩するのではなく、純粋に「この人は会社にとって価値があるから、引き止めたい」と判断して動ける。これが、本来あるべき経営の姿です。

「冷たい組織」になるのではないか、という懸念

ここまで聞いて、違和感を覚える方がいるかもしれません。

「仕事を文書化して、誰でも引き継げる状態にする。それは、社員を部品のように扱うことではないか。冷たい組織になるのではないか」

逆です。

仕事が属人化したまま放置されている組織こそ、社員にとって冷たい組織です。なぜなら、その組織では、優秀な社員は「辞められない」立場に立たされるからです。

考えてみてください。自分が辞めたら会社が止まる、と分かっている社員は、本当に自由でしょうか。家族の事情で辞めたいと思っても、「自分が抜けたら同僚に迷惑がかかる」と感じて辞められない。健康を崩しても休めない。新しい挑戦をしたくても、責任感が足を引っ張る。

属人化は、経営者を人質にすると同時に、社員自身も人質にしているのです。

仕事を組織の財産として整理することは、社員を解放する作業でもあります。自分が抜けても会社が回る状態は、社員にとって、心理的な重荷を下ろせる状態です。

これが、組織工学の発想する「冷たさ」の正体です。表面的には冷たく見えるルール化や文書化が、実は経営者と社員の双方を、互いを縛り合う関係から解き放っていく。

連載で扱っていくこと

第3回の今回は、人質経営という現象の構造を解き明かしました。

優秀な社員に辞められる恐怖は、経営者の個人的な弱さから来るのではなく、仕事の属人化という組織の構造から来ている。だから、解決策も個人の努力ではなく、構造の側に置く必要がある。仕事を頭の中から取り出して、組織の財産に変える。この作業によって、経営者と社員の双方が、不健全な依存関係から解放される。

具体的にどう仕事を分解するのか、何をどこまで文書化すればよいのか、そうした実務の手順は、これからの連載で順次扱っていきます。

次回(第4回)は、年功序列が崩れた今、経営者は何を基準に社員を評価すべきなのかを扱います。年齢や勤続年数に頼れなくなった時代に、それでも公平で、社員も納得し、会社の利益にも貢献する評価軸はどう設計できるのか。これも、感情ではなく科学で答えを出していきます。

人事は、感情ではなく、科学です。

私自身、人質経営から経営者を解放する設計と日々向き合っており、思考は今も更新され続けています。引き続きお付き合いいただければ幸いです。

当事務所が作る人事制度を、実際に一社ぶん組み上げた画面を、完成見本としてご覧になれます。ご相談は、メールでお受けしています。

完成見本にログインは要りません。