前回、退職という現象を扱いました。退職理由の本音第1位は「人間関係」であり、その大半は会社に伝えられないまま、退職者と一緒に去っていく。この問題の根本解決は「本音を聞き出す」ことではなく、「個人の人間関係に依存しない組織を設計する」ことだ、というところまで書きました。
今回は、その設計の中核にある「人事評価」を扱います。
人事評価は、社員の不満が最も集中する領域です。ある調査では、現役社員の62%が現行の人事評価制度に何らかの不満を抱いていると報告されています。これは、人事領域の中でも突出して高い数字です。
なぜ、人事評価はこれほど不満を生むのか。今回は、その構造を解き明かします。
不満の三大要因
人事評価への不満を分解すると、大きく3つの要因に集約されます。
第一に、評価基準の曖昧さ。「何をもって評価されているのか分からない」という不満です。
第二に、上司の主観に左右される。「同じ仕事をしているのに、上司が違うと評価が違う」という不満です。
第三に、フィードバックの不足。「なぜこの評価なのか説明されない」という不満です。
この3つは、別々の問題に見えて、実は一つの根を持っています。評価という営みが、評価者の主観に依存しているということです。
基準が曖昧だから、主観が入り込む余地が広がる。主観が入り込むから、評価のばらつきが生じる。主観で決めた評価は、論理的な説明がしにくいから、フィードバックも曖昧になる。
すべてが「主観」という一点に収束しています。
人間の脳は、公平に評価できない
ここで、心理学の知見を持ち込む必要があります。
人間の脳には、評価という行為において、生理的に逃れられないバイアス(認知の歪み)が複数存在します。これは、評価者の人格や能力の問題ではなく、人間の脳の構造そのものに組み込まれた特性です。
代表的なものを4つご紹介します。
ハロー効果。ある一つの目立つ特徴に引きずられて、他の評価が歪む現象です。例えば、声が大きく堂々と話す部下を「仕事ができる」と感じやすい。実際の業績とは無関係に、印象が評価を左右します。
確証バイアス。一度形成した印象を裏付ける情報ばかりを集めてしまう傾向です。「この社員は優秀だ」と思った瞬間から、上司は無意識のうちにその社員の良い面ばかりを記憶し、悪い面を見落とすようになります。逆も同じです。
寛大化傾向と厳格化傾向。評価者の性格によって、全体的に甘い評価をする人と、全体的に辛い評価をする人がいます。同じ部下を評価しても、評価者によって結果が大きく異なります。
中心化傾向。差をつけるのを避け、全員を中央付近に評価する傾向です。「上司が嫌われたくない」「責任を取りたくない」という心理が働くと、全員がB評価で並ぶ、という現象が起きます。
これらのバイアスは、評価者がどれだけ誠実に努力しても、完全には消せません。人間の脳は、構造的に、公平な評価ができないように作られているのです。
「評価者研修」の限界
ここで、多くの企業が陥る罠があります。
「評価者にバイアスがあるなら、評価者を訓練すればよい」という発想です。実際、多くの企業が「評価者研修」を導入し、上司にバイアスの存在を教え、公平な評価を心がけるよう求めています。
これは、無駄ではありません。しかし、根本解決にはなりません。
理由は単純です。バイアスは、自覚していても消えないからです。
心理学の実験で繰り返し確認されているのは、人間は「自分にバイアスがある」と知らされた後でも、同じバイアスに従って判断し続けるという事実です。バイアスは意識の下で作動するため、意識的に修正することが極めて困難なのです。
評価者研修を受けた上司も、研修の翌日には、ハロー効果と確証バイアスに従って部下を評価します。本人は「公平に評価しよう」と意識しているにも関わらず、です。
意識の力で人間の脳を上書きしようとする試みは、ほぼ常に失敗します。
発想の転換 — 「主観を信頼する」のをやめる
ここから、組織工学的なアプローチが始まります。
人間の脳が構造的に公平な評価ができないのなら、人間の脳に評価を任せること自体をやめればよい。これが、発想の転換です。
具体的には、こういうことです。
評価項目をすべて、観察可能な行動レベルまで分解する。例えば「コミュニケーション能力が高い」という曖昧な基準ではなく、「週次会議で自分のタスク進捗を3分以内に報告できる」「他部署からの問い合わせに24時間以内に一次返信を行う」といった、誰が見ても判定できる具体的な行動に落とし込む。
評価は、その行動が「行われたか/行われなかったか」を記録する作業になります。上司の主観が入り込む余地は、ほぼ消えます。
これは、評価者の判断力を信頼しないアプローチです。冷たく聞こえるかもしれません。しかし、よく考えてください。評価者の判断力を信頼することが、社員の不満を生んでいるのです。信頼しないことが、結果として全員にとって最も公平な仕組みを生みます。
「評価される側」も救われる
このアプローチには、もう一つ重要な効果があります。
評価項目が観察可能な行動レベルまで分解されていると、社員は自分が何をすれば評価が上がるか、明確に分かるようになります。
これは、現行の評価制度では失われている感覚です。多くの会社で、社員は「何をすれば評価が上がるのか分からない」「上司に好かれることが評価につながっているのではないか」という疑念を抱えています。これがモチベーションを根本から削いでいきます。
評価項目が明文化されていれば、社員は迷いません。日々の行動の優先順位が、自動的に整理されます。「上司の機嫌を取る」のではなく、「明文化された行動を実行する」ことに集中できます。
これは、社員にとっても大きな解放です。組織工学的な評価設計は、評価する側の負担を減らすと同時に、評価される側のストレスも減らします。
「評価」と「査定」を分離する
もう一つ、設計上の重要なポイントがあります。
多くの会社では、「評価」と「査定(給与・賞与の決定)」が一体化しています。上司が「Aさんは頑張った」と評価すれば、それが昇給や賞与に直結する。
しかし、組織工学的に正しい設計では、この二つは分離されます。
評価は、観察可能な行動の記録です。査定は、その記録に基づいて、明文化された計算式で給与・賞与を算出する作業です。
この分離が成立すると、上司は「査定する人」ではなくなります。上司の役割は、部下の行動を観察して記録することに変わります。査定そのものは、ルールに従って機械的に行われる。上司に給与決定権がない以上、社員は上司の機嫌を取る必要がなくなります。
これは、職場の人間関係を根本から変えます。第1回で扱った「人間関係が退職理由の第1位」という問題への、構造的な答えにもなっています。
連載で扱っていくこと
第2回は、人事評価の不公平感がなぜ消えないのか、その構造を解明し、解決の方向性を示しました。
具体的にどう設計するのか、評価項目をどう作るのか、査定の計算式をどう設計するのか、これらは今後の回で順次扱っていきます。
次回(第3回)は、優秀な社員に辞められる恐怖、いわゆる「人質経営」の構造を扱います。中小企業経営者にとって、最も深刻な痛点の一つです。なぜ優秀な社員ほど経営者を脅す立場に立てるのか、その構造をゲーム理論と組織論で解き明かしていきます。
人事は、感情ではなく、科学です。
私自身、評価設計の問題と日々向き合っており、思考は今も更新され続けています。引き続きお付き合いいただければ幸いです。