本日から、「未来の為の人事制度」と題した連載を始めます。
副題は、「人事は感情ではなく、科学である」。
経営者・管理職・人事担当者の方々、そして、組織の中で働くすべての方に向けて、人事という営みを構造から捉え直す試みです。終わりを決めずに、書き続けるつもりです。私自身、人事の問題と格闘し続ける現在進行形の社会保険労務士として、思考の途上にあるものを、その時々の到達点として提示していきます。
第1回の今回は、退職という現象を取り上げます。
ある調査結果を、まずご紹介します。
退職経験者4658名を対象とした2024年のアンケートで、「退職時に、会社に伝えなかった本当の退職理由はありますか」という質問に対し、54%が「ある」と回答しています。
つまり、退職者の半数以上は、会社に嘘をついて辞めているということです。
そして、伝えなかった本当の理由として最も多かったのが、「人間関係が悪い」で46%。一方、会社に伝えた退職理由の第1位は「別の職種にチャレンジしたい」で22%でした。
このギャップは、私たちが思っている以上に深刻です。
「キャリアアップ」の裏で起きていること
一人の社員が「キャリアアップのために退職します」と告げて、会社を去る。上司は「優秀な社員だったから仕方がない」と納得する。経営者は「うちは成長機会が足りなかったかな」と反省し、研修制度の見直しを検討し始める。
しかし、本当のところ、その社員は隣の席の先輩と折り合いが悪かっただけかもしれません。あるいは、評価面談で言われた一言が、ずっと胸に刺さっていただけかもしれません。
会社は、見当違いの方向に動き出します。
研修制度を充実させても、人間関係が原因で辞めた社員の後任は、また同じ理由で辞めていく。経営者は、自分が会社の何を見落としているのか、最後まで気付くことができません。
これは、特定の経営者が鈍感だから起きているのではありません。情報の構造として、会社側が本音を取得できない仕組みになっているのです。
退職者が嘘をつく、3つの合理的な理由
退職者が本当の理由を伝えない背景には、彼ら自身の合理的判断があります。これは責めるべきことではありません。
第一に、残る人間関係への配慮です。同じ業界、同じ地域の中で、退職後も人間関係は続きます。「上司が嫌いだったから辞めます」と言って、その上司の耳に届かない保証はどこにもありません。退職者は、未来のリスクを最小化するために、無難な理由を選びます。
第二に、「言っても変わらない」という諦めです。先ほどの調査では、本当の理由を伝えなかった人にその理由を尋ねたところ、46%が「話しても理解してもらえないと思ったから」と回答しています。退職を決意した時点で、その社員は既に会社に対する信頼を失っています。最後に本音を伝えるエネルギーは、もう残っていません。
第三に、社会的に許容される退職理由のテンプレートの存在です。「キャリアアップ」「家庭の事情」「別の道に挑戦したい」といった理由は、誰も傷つけず、誰も追及しません。退職者は、この社会的に用意された定型句に逃げ込みます。これは、退職者の弱さではなく、私たちの社会が共有している知恵のようなものです。
この3つの理由は、いずれも個人の心理ではなく、構造から導かれます。誰がその立場に立っても、同じ判断をします。
「退職面談」では、なぜ本音が出てこないのか
多くの企業が、退職時の面談を導入しています。退職者の本音を聞き出し、組織改善に活かそうという狙いです。
しかし、これがほとんど機能していないことを、人事の世界では薄々みんな知っています。
理由は単純です。退職者にとって、退職面談で本音を語るインセンティブが、ほぼ存在しないからです。
ゲーム理論の視点から見れば明らかです。退職者が本音を語った場合、得られるリターンは「組織が改善されるかもしれない」という不確実な公共財だけです。一方、失うものは「未来の人間関係」「業界内の評判」「最後まで穏やかに辞める権利」など、具体的かつ重大なものばかりです。
合理的な人間ほど、本音を語りません。
退職面談で出てくる「本当の理由」は、たいてい、退職者が会社に角が立たないように加工した、二次的な真実です。一次情報としての本音は、面談記録の外側に残されたまま、退職者と一緒に会社を去っていきます。
解決策は「本音を聞き出す」ではない
ここで多くの会社が陥る罠があります。
「もっと本音が出やすい仕組みを作ろう」「匿名アンケートを増やそう」「面談者を変えよう」──こうした努力は、もちろん無駄ではありません。しかし、根本解決にはなりません。
なぜなら、先ほど述べた退職者の3つの構造的理由は、面談の工夫では消えないからです。
私が提案したいのは、まったく逆のアプローチです。
「本音を聞き出す」ではなく、「本音が出なくても困らない組織を作る」
これが、組織工学的な発想です。
具体的には、こういうことです。退職理由が「人間関係」だろうが「キャリアアップ」だろうが、その情報が組織運営にそもそも必要ない状態を作る。なぜなら、組織が個人の感情やコミュニケーションの質に依存していなければ、退職理由がどうであれ、組織は影響を受けないからです。
これは冷たい発想に聞こえるかもしれません。しかし、よく考えてください。退職者の本音を必死に聞き出そうとしている会社は、なぜそれを聞き出したいのでしょうか。「次は同じ理由で辞めさせないため」です。つまり、組織の脆弱性を、個別事例の収集で補おうとしているのです。
これは、根本的に方向が間違っています。
「個人の人間関係」に依存しない組織は、設計できる
組織が個人の人間関係に依存しなければ、人間関係の悪化は退職理由になりません。これが組織工学の基本姿勢です。
「そんなことが可能なのか」と思われるかもしれません。可能です。
具体的には、業務の遂行が個人の裁量や属人的な判断ではなく、明文化されたルールと手順で動いている組織は、人間関係の影響を最小化できます。誰と誰が仲が良いか悪いかに関係なく、業務は粛々と進む。評価も、上司の主観ではなく、明文化された基準で決まる。報酬も、感情的な配慮ではなく、ルールに従って計算される。
このような組織では、社員が抱く不満は「人間関係」ではなく、「ルールへの不満」に変わります。そして、ルールへの不満は、人間関係への不満よりも、はるかに対処しやすい性質のものです。なぜなら、ルールは可視化されており、議論の対象にできるからです。
人間関係は、本人にも見えていない感情の集積です。これを組織として扱うことは、原理的に困難です。
ルールは、誰の目にも見える明文化された取り決めです。これは、組織として扱える対象です。
組織が扱える対象に、問題を翻訳する。 これが、組織工学的な人事の出発点です。
連載で扱っていくこと
ここまでお読みいただき、感じられたかもしれません。「言うのは簡単だが、具体的にどうやって設計するのか」と。
その通りです。第1回の今回は、問題の在り処を提示するに留めました。具体的な設計論は、これから連載で順を追って展開していきます。
次回は、人事評価について書きます。これも退職理由の上位常連であり、社員の62%が現行制度に不満を持っているというデータがあります。「上司の主観で評価が決まる」「基準が曖昧」「フィードバックが不十分」という三大不満を、心理学と組織工学の知見から構造的に解き明かしていきます。
人事は、感情ではなく、科学です。
この連載を通じて、その姿を一緒に見ていきましょう。
私自身、毎日この問題と格闘しており、思考は今も更新され続けています。お付き合いいただければ幸いです。